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谷崎潤一郎「春琴抄」

オーディオブック

春琴は大阪道修町の薬種商を営む富裕な家の次女として文政12年5月24日に生まれた。 容姿端麗な春琴は4歳の頃から舞を習い、その姿は優艶で舞妓も及ばぬほどであった。

また、早くから読み書きの道を学び、上達が早く二人の兄を凌駕した。

しかし、春琴が9歳の時、両眼の明を失い、これを機に舞技を断念し、専ら三味線の稽古に励んだ。 春琴は琴の師匠である春松検校の家へ丁稚に手をひかれて稽古に通った。 その丁稚の名は佐助といい、春琴より4つ歳上で13歳の時に始めて奉公に上った。 春琴に忠実である佐助は春琴の稽古の付き添いをするうちに、彼女の好むものを好むようになり、密かに三味線を購入した。

短時間の独学にしてはかんどろころも確かで、節回しも出来きていて皆は感心した。

佐助は丁稚の任務を解かれ春琴の手曳としてまた相弟子として検校の家へ通うようになった。 親達は結婚を諷したが、春琴は拒否。

春琴が20歳、独立して師匠の看板を掲げ、佐助もついて行った。

春琴の器量が目当てで習いに来るうちの一人、利太郎という放蕩者の若旦那がいた。利太郎は梅見に誘い、春琴を口説こうとするが失敗。熱心に教えてもわざと気のない弾き方に、春琴は「阿呆」といい撥をもって眉間を打った。利太郎は「覚えてなはれ」と捨てぜりふを残して憤然と座を立ち、それきり姿を見せなかった。

それから一ヶ月半が経ったある夜、春琴は寝ているところを何者かに熱湯をかけられ、顔が爛れてしまう。爛れた顔を佐助に見られたくないといった言葉に佐助が起こした行動とは・・・。

谷崎潤一郎

1886年(明治19年)東京日本橋で生まれる。家業が傾き、住み込みで書生となり家庭教師をしながら学業に専念。1908年に東京帝国大学国文科に入学。1910年大貫晶川、小泉鉄らと第2次『新思潮』を創刊、『誕生』や『刺青』などを発表。1915年 石川千代と結婚、1930年離婚。関東大震災後は関西へ移住し『吉野葛』『春琴抄』を発表。 1931年 古川丁未子と結婚、1934年離婚。1935年森田松子と結婚。1959年 右手に麻痺症状が出て、口述筆記にり執筆。1965年79歳で死去。

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